yoon う う う う え う。えー、今わたしダウン…だからカフェ講義で説明したとおりに来れば、今部屋でアレを「上八字(상팔자)」と3本柱を定めるとか言うでしょう。十式を新憲法としてお話ししなければいけないんですけど、実はその部分が後の部分は本がないとちょっと、進度を…図ろうにも、今ちょっと本を参考にしていただくところが多いんです。ええ。そして、今これを撮って2…今日、今現在撮っている時間は…これは時間は、私たちみんな、その話です。あー、いやー今日、今日お話しするのはモゴ(모교)…というか、本はたぶん来週の木曜あたりにはお受け取りになるんじゃないかと思います。来週の木曜より前には手にされるかもしれません。ええ。なので私の手元に本が届くのが、今4月115…? 今届くことになってるんですよ。だから印刷物が出てくるのが月末ごろに~となっていて、私もそれをタグ(※たぶん刷り上がりの検品か何か)で確認したり、そういう段階をもうひとつ経て、速ければフル…を入れて…「あれ、まあまあそういう…」みたいな。ああ、これは私の意図かな? というような話をしているんですが、とにかくまあ「12日ぐらいには本が届いたのかな? そしたらすぐ発送しますよ」と。で、問題はまた「講義を撮ってアップしてください」と言われて、どんどんアップしていたら、私が考えている範囲を今超えていっているんですよ。超えていっているので、ええ…本の内容をプルプル読み上げていると、これはちょっと…ですから、本がないといけない講義をやりたいんですよ。ちゃんと本の内容を押さえて、それを手元に置きながらやっていかないと、皆さん後でご覧になるにしても、今の段階の講義だとむしろもっと疑問が湧くだろうし、それに、どんな学問でもそうですし、人もそうですけど、最初のアプローチ自体をどうするかが百ですごく大事でして。本を一度読んでから講義を聴くのとでは差があるんですよ。だから、とくに「識神(식신)に入る前には」…「識神」とかそういう部分に入る前には、本を一度読んでおいて、そのうえで進めていただいた方がいいと思うんですね。なので、まあ時間的に今「新刊が出る時に、ここは四柱(사주)関連…サジュ関連…地支…ですかね、前に四柱をやってきたし似ているし…」みたいな話をしています。
それで私が今オンラインで見たんですよ。YouTubeを見てみたら、今もう…何かみんな自撮りして、あれこれ言って…「世の中のすべての人がみんな勘違いをして生きてるんだ」みたいに講義をして、「ああ、これはもう100万、何十万ビュー行くんだろうな」と思ったら、現実は私の講義はチャンネル登録者が189人しかいません、ええ。私が…いやまあこれからコンサルティングの対象にしたいという方々が聴いてくださるんでしょうが、でもそんなに多くないんですね。とりあえず私のブログを見ている方々が中心になるでしょうし、私に個人的にコンサルティングを受けている方とか。そういった方がここに流れ込んでいるけれど、あまり多くは見ないですね。そうですよね? 私が苦労して2回も3回も話しているのに、再生回数が6回、2回とか(笑)、一週間前とかにアップした1本の動画がまだ1回とか…そういう具合です。だから、私は他の人たちが四柱の講義を「サジュ関連」を上げたらどれくらい伸びているのかなと見てみると、ものすごく再生回数がいってるんですよ。何十万とか上がってる。でも、驚きです。私が上げたのを見ても全然人が見ない。そうなんですよ。私の講義を継続して観察してくださった方はお分かりだと思うんですが、まあ…普通にちゃんとやっていますよね? そうでしょう。最初は「イドンファンTV(이동환TV)」というチャンネル名でしたけど、子どもたちとどうしようかと相談しながら、「ああ、お父さん、サジュの本も出したし講義もアップしたしね」と言って、いろいろ試行錯誤しながら、「ア…この “TV” とかついてるの、なんだかダサいね」「最近のトレンドとしては自分の実名でやってもいいんじゃないの?」というので外したんですよ。それを皆さんにお話ししないといけない。チャンネル名も「イドンファン」を取ってしまったというのは、最近みんながそうしているからですね。今は自分の名前をそのまま出して、「俺は〇〇だよ!」みたいな感じでやるでしょう? だから私もそうしたわけです。ええ、私も流れに乗らなきゃいけない。皆さんも世の中の流れがあるならば、ただ素直についていくのもいいです。これが自分に合わないならまた考えるべきかもしれないけど、大抵は無難にやるものです。そういうわけでやってみたら、他の人がどうやって検索するか見たんですけど、やはり「パクサ(박사)」とかで検索すると…あっ、こういうわけで「パクサ・ファイル」…あっ、そうそう、「박사과일(パクサ果物)」。ええ、そういう話がいろいろ出てきましたね。で、結局出てくるのは「龍(용)の…何か、どうたらこうたら…」「無神論」「騰某」「五酉」「重四柱」こういうのを解いてる方がパッと出てくるんですよね。まあそういうのを見ると、何をしているかというと、だいたい「他人のサジュを勝手に取り上げてきて解説する」みたいな感じです。霊能者だったり、いわゆる「ムーダン(무당=巫堂)」が話をしてるんですけど、ムーダンは正攻法でサジュを学んだわけじゃない可能性が高い。ほぼそうなんですよ。ええ、韓国のムーダンの方々のほとんどは私のクライアントなんですよ。なぜなら彼らは不安があるんですよね。自分の「霊力」がいつ離れてしまうかわからないんですよ。だから「先生、サジュを勉強したい」と言って来るんですよ。霊力というのは一人じゃなくて複数いるんです。別名で「ヒミャン(희미한, ぼんやりした?)の分野」とか言われてるんですけど、そこには大きな神様がいらして。要するにムーダンというのは神様によって選ばれた人で、その神様が離れたらムーダンは能力を失ってしまう。ムーダンは「神の力」で人を見ているから、ということなんですね。私がムーダンに対して持っている考え方はブログでも「ムーダン」「霊能者」カテゴリーで書いてますので、よかったらご覧ください。後でまた機会があればお話しします。
で、そういった方々がサジュをめちゃくちゃにアップしているわけですよ。けれど、実際には彼らはサジュを見ているのではなく、霊感で話しているんですね。真面目にきちんと学ぶとかではなく、霊力を言葉にするしかない。まことに厳密に勉強したムーダンの方はサジュを知りません。自分が霊に憑依されて、サッと見ているという感じです。来訪者の顔を見ただけで霊が何かを教えてくれる。だから「あなたにはこういう過去があったでしょう?」と当てるわけです。すごい能力をもつムーダンはいるんですよ。実際に私が会った方で「国文学者級」とまで言われるほどの知識をもつ方がいたんですが、その方も今は霊力が離れてしまって苦労されている。私がサジュを教えて、少しでも稼ぎ口になるようにアドバイスしたりしましたが、まあ…ムーダンをするしかない状況だったんですね。最初に会ったときは驚異的な力を発揮していて、何か会話すると「なんでそんなことがわかるの?」というくらい当ててくる。私がその人に「この人についてこういうことを聞きたい」というのを、思っただけでしゃべるんですよ。何を言ったかというと、私があやふやに記憶していた二人の人を混同していたんですけど、その混乱さえ正確に指摘してきたんです。私は「これはいったいどうなっているんだ?」と驚愕しました。
つまり、ムーダンの霊力というのは、相手の頭の中の情報を読み取るわけです。だからムーダンが自分で考えてるように見えて、実は「内在している神」に問いかけて、それを口にしているんです。たとえるなら、身体というアンテナがあって、神様とつながっている。相手が憑依していようといまいと、その神様が相手の頭のなかまで入っていって、「この人は過去こんなことがあったね」と読み取る。だからムーダンと会話していると、こちらが忘れているようなささいな記憶までえぐり出されることがある。そこまでは感服するんですが、問題は「未来を見られるか」という点です。過去は脳に記憶があるから読み取れる。けれど未来はまだ何も起こっていないからわからない。いわゆる「名理学(명리학)」でいう未来予測というのは、「過去の一貫性」を前提に「これまでこうだったから、これからもこうなる可能性が高い」という論理ですよね。ですから「あなたはこのサジュだから、昔こういうことをしていたし、今もその延長線上にいるのだから、未来もこうなる」というふうに予測する。それが名理学であって、そこが霊能(ムーダン)のアプローチとは違うわけです。もちろん「ムーダンの脳内」に、その人の全人生の情報があるわけじゃなく、その人自身の脳に未来情報はまだないのですから、霊感では未来を正確に見るのは難しい。だから「霊能者は過去はよく当てるけど未来は外す」という話があるんです。そういうわけです。
そこで「未来を当てられるのは誰なのか?」と考えると、「記憶」というものを持っている当人が過去をどう記憶し、そしてそこに基づいて未来をどう行動するか。要は「名理学」というのは、ある程度「過去→現在→未来」の一貫性を踏まえて予測を立てるわけです。だから絶対100%正しいとは言えないけど、かなり有用だということですよね。一方、ムーダンはこうした論理はない。もちろんムーダンもお客さんの過去を当てながら「この人はこういうタイプだから、きっとこうするだろう」と推測はできるかもしれない。でも「未来は『現在の行動や選択』によって変わりうる」という点があり、そこまで含めて読み解くのは、名理学や易のような体系的な学問に基づく方が確実だという話なんです。
で、今までの話の流れを踏まえて、「サジュを論じるYouTube」を見ると、まあ…たいてい間違ったり、むちゃくちゃ言ってる人もいるな、と思うわけです。私も「なんでこんなに再生数が伸びるんだ? みんな信じるのかな?」と思うような動画を見たことがあります。なかには「来年あなたは奥さんの実家の食堂を継ぐでしょう」みたいな、よくわからない話をサジュから推察して言っている人もいる。サジュにそんなディテールは出てこないんですよ。「奥さんの母親が食堂をやっているから、そこで働くことになるだろう」とか、そんなものは「霊感」か「与太話」かどっちかです。サジュからは「その人が親や妻をどう捉えるか」とか「大まかな運気」くらいはわかっても、「義母が食堂経営をしているからどうこう」なんていう具体的な話は出ないんです。そういうのを「さもサジュが教えてくれたかのように言う」のは大半が作り話だし、名理学の正統なアプローチとはかけ離れたものです。
このように、韓国では昔から「サジュ=当て物」「サジュ=一般的な職業や背景まで全部わかる」のように錯覚されていて、それが大衆向けのエンタメになっている側面もあるわけですが、私が見るに、それはかなり歪んだ姿です。名理学はもっと地道で論理的な学問であり、当人の「過去から現在」を丁寧に検証し、その一貫性を基盤に「未来」の予測やアドバイスをするものなんです。しかも、「それが100%確定的ではない」というのも理解しておく必要がある。なぜなら人間は最終的に「どう行動するか」で運を切り開いていくからで、サジュはその枠組みや傾向を示すだけです。
私も個人相談をやっていて、「まったく当たらなかった」という人がいないわけではありません。その場合は「あなたがこう動いたらこうなる可能性が高いですよ」と伝えたのに、その人がまったく動かなかったり、途中でやめてしまったりしたケースが多い。ある例では「海外からこういうものを輸入するといいですよ」とアドバイスしたら、「わかりました!」と意気込むのだけれど、結局やらずに終わってしまった。後から「何も当たらなかった」と言われても、「やらなかったんだから当たらないも何もありませんよ」としか言いようがないですよね。一方で同じ時期に同じように「輸入するといいでしょう」と言ったら、実際にやって大成功を収めた人もいる。「だから運命というのは行動してこそ現実化するんです」という当たり前の話なんです。
こういうところもふまえて、「未来を語る」というのはすごく難しいし、正確さを求められるわけですが、最終的に「責任を持てるのか」と聞かれたら、私は「責任を持つべきだ」と思っています。適当なことを言って人を惑わすような占いは、やはりよくない。でも逆に「アドバイスを一切聞かなかった」「言ったとおりにしなかった」というのなら、それは当人の選択結果として仕方がないでしょう。
こうした話は弁護士や医者なんかにも通じるもので、「あなたはこうした方がいいですよ」と言われても、「いや、自分は別のやり方をやります」としてうまくいかなかったとして、それを弁護士や医者のせいにはできない。でも、「完全に的外れな提案だった」ならば、やはり問題にもなるでしょう。サジュの世界でもそれと同じことが言えるわけです。
また、サジュを見るとき大切なのは五行とか十二運とか、そうした基礎的な要素なんですね。私がYouTubeでちらっと見た他の方の講義で、「あなたは来年、教育関係の仕事を始めるから、そこでの人間関係がどうたら…」と言い始めて、挙げ句の果てに「奥さんのお母さんが絡んでいるからどうなる…」とか言ってました。これはやはり霊能や想像を膨らませているだけで、本来の名理学的な分析とはかなり違うでしょう。サジュでは「社会的なポジション」「自分や家族に対して抱く気持ちや傾向」などはある程度推し量れる。でも「義母がどんな職場を経営しているか」「それを引き継ぐかどうか」なんていう具体的な情報は出てきません。
また、「過去に子どもを亡くしたかどうか」とか、「親が莫大な遺産を持っているかどうか」といった、極端に細かいことも、サジュだけで正確にわかるわけではない。それは「本人の過去や周辺状況をすり合わせた上で、論理的に導き出す」のであって、いきなり何も情報がない状態で断定はできないですよね。もし「その時期に家庭が波乱続きだった」とか「健康問題の暗示が強かった」など、いくつかの要素を重ねてみれば「このころ家族が大病をしたか、あるいは亡くしたかもしれない」と推測はできるかもしれませんが、事実とはズレる可能性だってあります。
だからこそ、私が「サジュは人を生かすためのもの」だと言うのは、その予測をどう活かして「注意喚起をするか」「どう行動を変えるか」が重要だからです。たとえば「過去に犯罪を犯した誰々はこういうサジュだから、一生どうしようもない」という断定をするのは危険です。同じ四柱を持っていても、まったく犯罪とは縁のない人生を送る人だって大勢いるわけです。結局、その人がどんな親のもとに生まれ、どんな環境で育ち、どんな経験をしてきたかで、運命の現れ方は違います。同じように「ある連続殺人犯と全く同じ四柱だから危険」と言ったら、それこそ数万人、数十万人規模で危険人物扱いしなければいけない。現実的にはありえない話ですよね。
こんなふうに、サジュの理解において「特定の有名人」や「事件・事故の犯人」を素材にして、「この四柱はこういうふうに悪事を働きやすい」と決めつける人もいるんですが、それはあまりにも粗雑です。名理学というのは、本来「生きている人」を対象に、「ではこれからどう生きればいいか」「どう工夫すればより幸せになれるか」をアドバイスするもの。ところが世の中で受けがいいのは、どうしても「有名人のサジュを勝手に推測して当てはめる」「凶悪事件の犯人の四柱を見て、ああだこうだ言う」というネタだったりします。それを鵜呑みにすると、「ああ、こういう四柱は危険なんだ」と短絡的に信じる人も増えるので、これは非常によくない。
だから、私が講義を通じて伝えたいのは、「こういうスキャンダル的、エンタメ的なサジュの読み方」はやめましょう、ということです。大切なのは、本当に目の前にいる人が持つ四柱をしっかり見て、その人の過去や現在を総合的に把握した上で、「ではあなたはこれから何をどうすればいいのか」を示すことなんです。特に未来予測では、「過去と現在の延長」として未来があると考えるのが名理学。さらに本人が主体的に行動するかどうかで変わる余地が大きいので、そうした点まで踏まえたアドバイスが必要なんですね。
もし私が教育現場にいるなら、生徒の四柱を見て、「この子はこういう特性があるようだ」と把握したうえで、指導方針を柔軟に変えていくことができるでしょう。営業マンなら、クライアントのサジュを見て、「この人にはこう接した方が伝わりやすいかな」と応用できるし、逆に「自分の四柱を理解して、苦手な部分を補う人材を採用しよう」と考えたりできる。そういう実践的な活用を「名理学」というのは提供してくれるわけです。
これが蓄積されていけば、より高いレベルでサジュを使いこなせるようになるけれど、最初から「何でもわかる」「何でもピタリと言い当てる」と思い込むのは危険だ、ということですね。結局のところ、名理学は「人を救うためにある」もので、「事件ネタ」をあれこれ当てはめて断罪するためにあるわけではない。特定の大事件の犯人と同じサジュを持つ人も大勢いるんだから、そうした人をみんな罪人扱いにするのは、あまりに短絡的すぎます。
それでまた、職業の話も面白いんですよ。昔のように「官吏になるか、世襲の仕事をするか」しか選択肢がない時代なら、サジュで「官運がある」とか「技術屋の才覚がある」とかがそのまま当てはまったかもしれない。でも現代は仕事の種類が膨大で、「会社員」と言っても実に多様だし、ITやネット通販やその他専門職や…多岐にわたっています。だから、サジュの「官」「殺」「印」「食神」などの要素を、一昔前の単純な職業分類だけで説明できるわけではないんですね。そこは柔軟に考えて、今の社会に応用しないといけない。
そういう点で、かつては人気がなかった医学部が、いまはむしろ合格が非常に難しくなっているし、ITや工学の一部が稼げる分野になっていたりもする。社会の変化とサジュのもつ適性との擦り合わせが重要になってくるわけです。昔なら「兵役免除でもらえる資格があって、それをもって医者になる」とか、そういう道もあったでしょう。でも現代はそうとも限らない。ですから、同じサジュを持っていても、その人の属する環境や、取り巻く社会情勢によって職業は変わってきます。
結局、サジュというのは「この人の行動原理や興味関心、得意なこと」が大まかにわかるものであって、それを「どこでどう発揮するか」は環境次第だということですね。だから「これをしないと絶対にダメ」とか「あなたのサジュだと絶対医者になる」などの断言はできないんです。名理学は本来、「もし医者になる道を選ぶなら、あなたにはこういう資質があるから活かせるだろうし、こういう面は苦労するだろう」というふうに使うものです。
だから私も講義で職業について説明はしますけど、それは「典型的なサジュの象徴表現」として言っているだけで、「あなたは一生それに縛られる」という意味ではない。むしろ、「もっと広い可能性を考えて、自分に合う生き方を探す」ためのヒントを提供したい。そういうふうに理解してもらえたらうれしいです。
長い話になりましたが、結局「サジュを歪めて解釈している人たち」は、すごく感覚的で刺激的なネタを好む場合が多いんですよね。私がこうして論理的に丁寧に話しても、派手さはないから大勢には受けにくいかもしれない。でも、だからこそ私は「本当にサジュを学んで役立てたい人」に向けて、こういう話をしています。いろいろとオープンにしてしまうと、かえって誤解されることもあるので敬遠する人もいるのですが、結局、この学問を正しく使うためには避けて通れないことなんですよね。
とにかく、本が届いてからのほうが講義はよりスムーズに進められると思います。皆さんもご自身で本を手にして、実際に目で確かめながら聞くと理解も深まるはずです。なので、今日もまたダラダラとおしゃべりをしてしまいましたが、ある意味、こういう話はお金を払っても聞けないようなことかもしれません。雑談に見えるかもしれませんが、私が積み重ねてきた経験や、ほかの講義ではなかなか語れないような話をしているつもりです。
さて、この続きはどう進めていくか。また考えてからアップしようかなと思います。一度ここで終わります。はい、では終わります
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